蝉の声
紳士が丁寧にお礼をする。
「礼には及びませんよ。」
「いえ。ひとりではどうにもなりませんでした。本当にありがとうございます。」
僕らの目の前には淡いピンクの小さなゴミ箱。女性のいる家ならば、必ずお手洗いに置く汚物入れ。壁の角に沿うように丸みを帯びた三角の形をしている。僕はその中から汚物でいっぱいになったスーパーのビニール袋を取り出して、中に漂うツンと酸っぱい臭いを想像し、吸わないよう軽く息を止めながら袋の口をしっかり絞った。
彼はこの処分に困っていたようだ。
50代後半くらい。上質なスーツをきちんと着こなして、オールバックの髪に白いものが混ざっている。口髭のある上品な紳士。
僕は右に動きたくなった。でも髪がボサボサ絡まるのは嫌だとも思った。
えい!寝返りをうつ。頬にサラサラと髪のかかる感覚が気持ちいい。
午前8時。薄暗い壁に映る、カーテンからくるグラデーションを見るとはなしに見ていた。蝉の声が反響している。
どこまでが現実で、どこからが夢なのだろう。明白な境界線?そんなものないように思われる。あの口髭の紳士は、強度の存在感があったのだから。